教
育
問
題 |
- 437 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/17(土) 20:38
- >400,412
これこれ、なにを勘違いしておられるのぢゃ。
わしはの、ただのぢぢいぢゃ、なにも特別のことを知っておるわけ
のものではない。
天下の機密情報などを存じておるわけもなかろう。物知りなどと持
ち上げられれば、悪い気持ちはせんが、あまりにかいかぶられるの
は、ちとのう。
さてさて、どうせ、本題からはずれにはずれた脱線ついでぢゃて、
このころ朝鮮籍に残った鮮人どものこともお話しておこうか。
朝鮮籍から韓国籍に切り替え、永住権を取得したものが多数派にな
ったあとでも、北鮮を支持するものはまだまだ、4割から3割ほど
も残ったのぢゃ。
少数派になった北鮮支持派の拠り所はの、北鮮そのものの存在と朝
鮮人学校ぢゃったよ。
この連中には、北鮮の選挙権もあり、総連の幹部ともなれば北鮮の
国会議員などに相当する地位にもなれるのぢゃ。
つまり、日本にいながら、北鮮の国民、当人たちは共和国公民と言
っておったが、として日本社会とは経済活動以外はなるべく関わり
をもたずに暮らそうということぢゃろう。
朝鮮人の学校については、戦後間もない頃からあれこれといざこざ
があっての、鮮人どもがそのあたりの公立学校の校舎を勝手に占領
して朝鮮人学校にしてしまったのが発端で、警官が追い出そうとす
ると、何千何万の鮮人が集まって騒いだでの、神戸などでは、進駐
軍の憲兵隊、MPまで出動するような騒動まであったの。
- 438 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/17(土) 20:38
- 教育熱心といえば、熱心なのぢゃが、韓国系の学校はごく少なくて
の、韓国籍の子弟の大半は日本の学校に通うことになるのぢゃ。
朝鮮籍子弟であっても、近くに朝鮮人学校がなければ同じぢゃの。
この日本の学校にいった連中はな、通名といって、朝鮮人の本名で
なく、みな日本人風の名前を名乗っておった。
ぢゃから、同じ学校に鮮人が通っておって、教師は心得ておっても、
生徒のほうは知らぬままのことが多かったのぢゃよ。それどころか、
鮮人の生徒もどうかすると、同じ学校に別の鮮人がおってもわから
ぬことすらあったのぢゃ。
さて、朝鮮人学校のほうはといえばの、当時の朝鮮籍の鮮人が立て
前としては、いずれ北鮮に帰国するということになっておったで、
なるべく北鮮の学校と同じ教科や授業をおこない、北鮮の国民とし
ての教育をほどこしておったのじゃよ。
北鮮側の言い様では、共和国在外公民教育とか称しておったの。
今では、民族教育の権利がどうのという論を持ち出すものがおるよ
うぢゃがの、なんのなんの、少数民族の文化継承のための教育など
ではないて、在外公民教育、例えて言えば、米国在住の日本人子弟
に日本国民としての教育をおこなう学校が、米国の教育制度と関係
がないのと同じでの、日本国の教育制度とは縁もゆかりもないこと
なのぢゃよ。
さて、表向きでは、朝鮮人学校で共和国在外公民教育を受け、日本
の政治や社会などには関わることなく、ひたすら、北鮮、いやいや
統一朝鮮に帰国する準備をしていることになってはいたのぢゃがの、
一歩学校を出れば、そこは日本ぢゃ、なかなか、身も心も北鮮人に
なりきるのは難しかったろうて。
- 439 名前: これもぢゃ 投稿日: 2000/06/17(土) 20:40
- 帰国船さわぎの、ちと具合の悪いうわさにもかかわらず、北鮮を祖
国ときめこんで朝鮮籍に残った鮮人の胸の内はなかなか推しはかる
ことのむずかしいものがあるがの、一種の宗教と考えればさほど不
思議でもないかの。
ほれ、親鸞聖人が弟子に「いくら念仏を唱えても、早くお浄土に往
生したいという気持ちが湧いてこないのですが」と問われて「そう
か、おまえもか、実はわたしもそうなのだ」と答えたという有名な
話があるぢゃろ。
「お浄土に往生」とは結局のところ死ぬることぢゃで、親鸞聖人様
とて念仏しながら極楽往生は願っても、すぐにお迎えが来ることは
望まぬということだの。
鮮人どもにとっても、祖国統一を祈願して金日成に万歳を唱えるこ
とと、実際に北鮮に暮らすことは別物ということなのぢゃろうて。
なに、親鸞聖人を知らんとな、それはよろしくないぞ。
ぢぢは門徒ではないが、親鸞の事蹟などは心得ておくのが心掛けと
いうものぢゃ。
ふむ。なにやら話が抹香臭くなったか。こりゃいかんの。
あとの話は、またつぎのこととしようかの。
|
|
- 442 名前: ぢぢ様が話された朝鮮人の騒動 投稿日: 2000/06/17(土) 22:26
- ・24阪神教育事件(1948年4月23日〜25日)
大阪市および神戸市において、朝鮮人学校問題をめぐって在日朝鮮人連盟系約2500名が府県庁を取り囲み、知事以下の上層部を軟禁して暴行脅迫し、多数の器物毀棄行為に出た。このため進駐軍神戸地区司令官より、「非常事態宣言(戒厳令のこと)」が布告された騒擾事件で、検挙者1800名および、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。
王子事件(1951年3月7日)
政令325号違反容疑として十条の朝鮮人学校(今の朝鮮中高級学校のこと)を捜索されたとき、これに反対する約1700名が無届集会により解散を命ぜられるや、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。
- 443 名前: >442 投稿日: 2000/06/17(土) 22:39
- でも、この記事の朝鮮人学校問題の中身が「そのあたりの公立学校の校舎を勝手に占領
して朝鮮人学校にしてしまった」ことだっていうのはわからないよね。
あ、この記事紹介がいらないってことじゃないんだけど、なんでそういう説明がないん
だろう。
思うんだけど、阪神教育事件って、在日の間では良いことになってるんじゃないかな。
朝鮮人学校を守る戦いだった、とか。
でも、勝手にそのへんの学校を占領して朝鮮人学校にしてたなんて、今の在日は知らな
いんじゃないか。
- 445 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/18(日) 01:34
- ふと疑問に思ったのですが、大日本帝国支配時代に産み落とされた日朝混血児
というのはあるのでしょうか?
この手の話はまったく聞いた事がないのですが、混血児がいないとも思えません。
誰か教えてください。
ぢぢさまもそのあたりご存知ないですか?
- 449 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/18(日) 14:27
- 三国人発言から、それは差別だといった側にとって、知られたくない過去が明らかになったりして、なかなか世の中は複雑ですね。もっともっと情報が欲しい。それらを見てから三国人発言が、差別だったのかを考えればいいわけだから。
|
結
婚
と
家
族
制
度 |
- 450 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/18(日) 14:36
- 話の先を続けようかと考えておったのぢゃが、なにやら疑問のある
お方がおるようぢゃの。
>445
>日朝混血児 というのはあるのでしょうか?
勿論のこと、おったよ。ぢゃが、そのような話が特段の問題となっ
たことがあるとは聞いたことはないの。
つまりは、とりたてて話題にするほどのことではなかったのぢゃ。
簡単に混血児などというがの、外見上、日本人と鮮人の混血と普通
の日本人やら鮮人と区別がつくものかの。
ぢぢには、区別がつかんぞ。外見上区別がつかなければ、法律上、
教育上、生活上の問題が残るばかりだの。
まずの、敗戦までは朝鮮も日本国民であったということを忘れては
いかんの。朝鮮と支那はちがうでのう、別に日本が軍事占領してお
ったわけでもなければ、一部にせよ住民と敵対していたなどという
ことは全くないのぢゃ。
ぢゃから、日本人が武力やら権力やらをかさにきて、鮮人の婦女子
に狼藉をしたなどいうことは全くありえんことなのぢゃよ。金の力
でということならば、当時は内地もおなじことであったの。
そもそも、日本人と鮮人の通婚は、皇室が垂範されたくらいでの、
公式に奨励されておったことなのぢゃよ。
当時の日本人と鮮人の結婚は、数は多くはないにせよ普通のことで、
今のような国際結婚などではなかったのぢゃ。
- 451 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/18(日) 14:37
- 日本人も朝鮮も家族制度は父系ぢゃで、父親が日本人ならば、子供
は日本人ぢゃよ。尋常に結婚しておれば全く問題などおきようがな
いの。妾、現地妻というような事実婚ということであれば、父親が
認知しておるかが分かれ目ぢゃの。
日本人として生まれておれば、学校もふくめて、並みの日本人以上
に日本人らしく教育されたであろうよ。そういうものなのぢゃ。
逆に父親が鮮人で母親が日本人であれば、鮮人なのぢゃが、どうし
ても日本に帰ろうということであれば、籍を抜いて母親と帰国する
ことは可能ぢゃったろうの。
鮮人の習俗では、腹は借り物というのが日本よりも徹底しておって、
母親の素性などより、父親の家系が重視されておったのぢゃ。
そもそも、南方と違って、当時の朝鮮の良家の子女とあいまいな形
で懇ろになるというのは、風俗的に日本でよりも難しいくらいのこ
となのぢゃよ。朝鮮に夜ばいなどという風習はないでの。
逆に水商売などということであれば、ほれ、公娼制度があったころ
ぢゃ、なにも半素人に手をださずともよかったでの。
男女のことは、人と人がふれあえば、何が起きても不思議はないが、
お考えのようなことは、個別にはともかく、大々的には起きようの
ないことだとお分かりいただけたかの。
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- 454 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/18(日) 18:07
- >朝鮮人の学校については、戦後間もない頃からあれこれといざこざ
>があっての、鮮人どもがそのあたりの公立学校の校舎を勝手に占領
>して朝鮮人学校にしてしまったのが発端で、警官が追い出そうとす
>ると、何千何万の鮮人が集まって騒いだでの、神戸などでは、進駐
>軍の憲兵隊、MPまで出動するような騒動まであったの
そう言えば、東京朝鮮中高級学校の敷地って、元々
「東京陸軍造兵廠板橋工場」だった所にあるけど、
これも大方、終戦のどさくさに紛れて不法占拠したんでしょう。
- 456 名前: 451 投稿日: 2000/06/19(月) 00:05
- 6歳児さま
レスどうもありがとうございます。
さっそく参考にさせてもらいます。
>ぢぢさま
直々にレスをいただき感謝いたします。
戦前の価値観を考えず、現在の価値観から判断していました。
てっきり戦後、半島に残された日本人の血の入った朝鮮人は
朝鮮動乱の際のドサクサに日帝のスパイなどの名目で処刑等
されたまま、歴史の闇に葬り去られているのではと妄想してしまいました。
お話の途中にもかかわらず、お答えいただきありがとうございました。
これからもいろいろ教えてください。
- 462 名前: 豚の爪 投稿日: 2000/06/19(月) 09:20
ぢぢ様、
朝鮮にも夜ばいは有ったと思いますけど。
6才児 ちゃん、
>梨宮方子には子供が生めないとかいう噂があったものだから、
>これで、李氏朝鮮王朝の家系はとぎれると、この結婚を後ろで糸をひいて
>いた人達は思っていたラシイけど、
誰もそんなことを思っていなかったと思うよ。
李垠のお父さん(26代 高宗)と25代の哲宗とは16親等以上の関係だからね。
つまり いとこのいとこのいとこのいとこのいとこのいとこというカンジ、
若し梨宮に子が産まれなくとも王家の血筋が途絶えるということことなどありえない。
|
北
鮮
の
工
作
員
と
大
統
領
狙
撃
事
件 |
- 468 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/19(月) 20:34
- >462
>朝鮮にも夜ばいは有ったと思いますけど。
ほう、そうかのう。あれは南方からきた習俗と聞いておったがの。
それはさておき、昭和40年代から50年頃の朝鮮籍に残った鮮人
の話に戻ろうかの。
何度もお話したように、北鮮の実態がはじめの話の楽園とはだいぶ
んに違うようぢゃと仲間内での評判となってからは、実際に北鮮に
渡ろう、帰国しようとするものはほとんどいなくなってしまったの
ぢゃが、まだまだ、社会主義建設中の祖国という夢は捨てきれんで
の、南北が社会主義のもとに統一すれば、いずれは日本よりも豊か
な社会ができるだろう、などと夢を先延ばしする鮮人も少なくはな
かったのぢゃ。
ぢゃがの、現実は厳しいものでの、永住権申請の期限が過ぎたころ
から、先に北鮮に渡った親族から、やれセイコーの時計を100個
送れのペニシリンを1000個送れなどという手紙が舞い込むよう
になったのぢゃよ。
またの、大きな声ではいえんが、北鮮の対南工作員などもこれらの
鮮人を頼ってというか、利用して浸透してきおったがの、ひとつに
は日ごろの主義主張から、もうひとつには人質同様の親族が北鮮に
おることから、なかなか断れんことであったのぢゃろう。
なに、今でもそうぢゃが、日本にはスパイ防止法などないでの、本
物の工作員が捕まっても大した罪にはならず、ちょいと服役した後
に北鮮に送還されるだけのことぢゃて、スパイ天国と言われておっ
たくらいでの。協力したとて大したこともなかったのぢゃよ。
- 469 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/19(月) 20:36
- さて、北鮮から在日の鮮人に物を送れの、金を送れの話がはじまっ
た裏には、ちと事情があるでの。
日韓条約後に日本からの援助を得た韓国経済の急成長を見て、北鮮
がちとあせっての、自分等も外国からの借款で工業プラントを導入
して対抗しようとしたのぢゃが、もともと近代的な工業プラントの
運営能力や企業の経営能力などありもしないうえに、石油ショック
にぶつかっての、外貨の借金だけが残るはめになったのぢゃ。
もともと乏しい外貨獲得能力しかないところへ、借金を抱えて、必
要最小限の資材を輸入するにも事欠くようになっての、そのしわ寄
せが在日鮮人のところへ来るようになったということぢゃて。
はじめの内は、身内がそれで助かるのなら、祖国が困っているのな
ら、と応じていた朝鮮籍の鮮人もな、たび重なるとだんたんと疲れ
てきての、おまけに指導者の世襲が決まったとなると、まじめな社
会主義者ほど考えこんでな、夢から醒めるものもぼちぼちと出ては
きたのぢゃよ。
さて、一方の韓国政府といえばな、朴正煕という大統領が開発独裁
というやつで、経済的には高度成長を促進しながら、政治的には反
政府活動をゆるさぬということで、左翼はもちろんのこと、日本の
普通の人々からも、ちとやりすぎでは、と見られておったのぢゃ。
そこへ、当時は野党の頭目で、韓国におられんで、日本や米国で活
動していた金大中氏、なんと今では大統領ぢゃよ、が東京で韓国の
工作員に拉致されるという事件が起きての、日本国中、右翼から左
派まで韓国非難で轟々という大騒ぎとなった。ちょうど、石油ショ
ックの年のことぢゃったかの。
- 470 名前: これもぢゃ 投稿日: 2000/06/19(月) 20:37
- なにより怒ったのは日本の警察ぢゃったな。ひとの国で断りもなく
勝手なまねをしおったとな。
ここで、あれこれと紆余曲折があったのぢゃが、1年後の8月15
日、韓国では光復節と呼ぶようじゃが、終戦記念日に韓国大統領の
狙撃事件が起きての、大統領夫人が亡くなる大事になったのぢゃ。
この犯人が、韓国籍ながら在日の鮮人での、今度は韓国が日本の責
任ぢゃと声をそろえて非難をはじめおった。
真実がどうであったのかは、藪の中ぢゃろが、韓国政府はこの犯人
の裏に総連と北鮮がおると断固主張しての、日本は総連や北鮮の工
作員を取り締まることを約束させられたのぢゃ。
そんなわけでの、この後しばらく、北鮮支持の鮮人どもで、日本の
警察から北鮮の工作やら諜報活動に関与しておるのではないかと疑
われたものは、韓国籍の者も含めて、外国人登録証の不携帯などの
微罪でも、交番に呼び込まれたり、さらに疑わしいとなると警察に
つかまるようになったのぢゃ。
実際に、この50年の間に表ざたになった北鮮工作員の事件は50
件少々ほどなのぢゃが、このあとの5〜6年、昭和56年までの事
件が十数件と平均の倍以上の割合になっておるの。
結局、割を食うたのは、一方では北鮮から物や金をせびられ、一方
では警察からにらまれるようになった鮮人どもぢゃよ。
すっかり、話が長くなってしもうたの。つづきはまたぢゃ。
|
|
- 480 名前: 早稲坊 投稿日: 2000/06/20(火) 06:51
- うーむ。2チャンネル屈指のスレッドだと思います。
ぢぢ様の博学ぶりにはただ驚くばかり。歴史の「流れ」をこういう風に
わかりやすく説明していただくと、関連書を読むときにとても楽になります。
感謝。
- 483 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/20(火) 20:27
- >459
>李氏朝鮮王朝の皇太子の李垠の腹違いの妹の李徳恵も
>たしか、日本人と結婚することになっていたらしい
これはちょっと変。
李徳恵(リ・トクヘ)は1912年に、高宗とその後宮の
梁福寧(ヤンボンニョン)との間に生まれた子供。
李徳恵が日本に連れてこられたのは1925年、彼女が13才の時。
たしかに李徳恵自身も日本行きを嫌がっていたであろうが、
父親の高宗にいたっては、彼女の日本行きを阻止するため、
自分の側近である侍従の息子との婚約話まですすめていた。
もちろんこの婚約話は日本側の意向によってなかったことになってしまう。
李徳恵は日本での生活が合わずに、神経衰弱となり、入院をするが、
病状がもちなおした19才の時に宗武宗(対馬藩主の家系)と結婚。
しかし、再び病気が再発。
精神を病んだ妻と別れたかった夫であったが、戦前の皇室典範では
離婚は認められていなかったため、終戦後に離婚。
李徳恵はひきつづき東京で入院生活を送る。
終戦後、李氏王朝の関係者は李方子をはじめとした、王朝関係者の
韓国への帰国を要請しつづけたが、大統領の李承晩はこれを拒否する。
しかし、大統領が朴正煕に変わると、朴大統領はこれを認め、
これによって李垠と李方子は韓国に。
李徳恵も1962年に韓国に帰国したが、結局、彼女の精神の病は死ぬまで
回復することはなかった。
李徳恵が死んだのは1989年。そのすぐあとに李方子も老衰で死亡。
- 484 名前: ながくてごめん 投稿日: 2000/06/20(火) 20:28
- 李垠と李方子の間に生まれた最初の子供は病死(?)で死ぬが、
その後、二人の間には男子がうまれ、その子供はMITに留学。
幼少時の李垠は伊藤博文にずいぶんかわいがられたそうだが、
(伊藤の大磯の別荘に李垠を招いて遊んであげたり、なにかの本で、
李垠と伊藤博文が一緒に馬車に乗り、馬に乗っていたのが
大倉財閥の創始者、という豪華なスリーショットの写真を見たことがある。)伊藤博文が死んだ後は、寺島正宗とはソリがあわなかったらしい。
李垠は日本の軍隊のなかで中将の地位(たぶん)まで昇り、
李方子との夫婦仲もよかった。
ただ、戦時中、ソウルに一族の墓参りに訪れた際、車の中で、
冷ややかに見守る民衆に対してずっと敬礼しつづけた彼の心中、
朴大統領によって帰国が認められたとき、既に体調を壊しており、
ソウルに帰っても病院から出ることなく生涯を終えた彼の心中を思うと、
歴史に翻弄される一人の人間の運命ってはかなすぎると思ったりする。
- 488 名前: ?1/4?3???3 投稿日: 2000/06/21(水) 11:51
- ぢぢさんの投稿で、心にしみた言葉。
>なにやら、日本が気に食わんと騒いでおった鮮人どもも、これでや
>っと落ち着き先が出来たのかと、あまり鮮人に好意的ではなかった
>日本人でも、大いに歓迎したものぢゃ。
これこそ、日本人の実感だよな。
現在も、日本が気にくわんと騒いでいる在日。落ち着き先はないものか....
>それが気に入らんということであれば、本来ならば自分
>の親を恨むのが筋というものでも、そこは情として、なんでも日
>本の社会が悪い、差別ぢゃと決めこんだのぢゃ。
在日は、父母、祖父母と話し合えよっていいたくなることを、
平気で日本のせいにすることが多いからな。
- 489 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/21(水) 19:25
- だから、日本人は「差別的」で日本は「先進国中最下位の人権状況」
でなければならないんだ。在日にとってはね、こいつらのオナニーに
いつまでも付き合うのはごめんだね。
「歯を食いしばって耐えるという矜持がない」by前田日明
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歴
史
教
科
書
事
件
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- 490 名前: ぢぢ 投稿日: 2000/06/21(水) 20:30
- さて、昭和50年代も中ごろの話ぢゃ。
この頃はな、暴走族やら、なんといったかの、つっぱりなどと言っ
ておったか、不良の高校生などに硬派が流行っておっての、男はガ
クランなどと称するやたらに丈の長い学生服、おなごでもなにやら
長いスカートなどをまとって、マスクなど付け、わざわざペシャン
コにつぶした学生カバンなど持ちあるいておったの。
こうした、硬派の不良高校生にとっては、在日鮮人は畏怖のまとで
の、畏敬すらされておったのぢゃよ。
なにしろ、喧嘩沙汰となったら朝鮮高校は無敵ぢゃったでの。不良
連中は、チョン高などと呼んで恐れておったものぢゃ。これに正面
から挑戦したのは、国士舘高校くらいのものぢゃろう。
そうそう、このつっぱりの連中は、自分達のつかっているつぶした
カバンをちょんバッグ、長いコートをちょんコートなどと称しても
おったの。
このころの不良連中の間では、「ちょん」は強そうで、格好のよい
ものの形容でもあったのぢゃ。
なにやら、かわゆげな子猫にこの不良どもの扮装をさせて写真にと
り、プロマイドにして売ったりもしておったわ。
はやりすたりというものは、こうして過ぎてみると、全くわけのわ
からんものぢゃて。
さて、昭和57年に例の歴史教科書事件というのがおきるのぢゃ。
これについては、皆もよく知っておるぢゃろうから、細かい話はせ
んが、実のことを言えば、当時はの、おおかたの日本人はそれほど
気にしてもおらなんだのぢゃ。
- 491 名前: つづきぢゃ 投稿日: 2000/06/21(水) 20:31
- 勝てば官軍という言葉があるでの、戦争に負けたのぢゃから、進出
を侵略と書けといわれてもいたしかたがなかろうとな。
なにしろ、支那はいまだにチベットを「解放」したまま平気でいる
くらいぢゃて、ものは言いようということぢゃろう。
たかが、言葉の使い方ひとつくらいで、周辺国と波風立てることも
あるまい、という程度の心づもりでの、それで気がすむのなら直し
てやればよいとぐらいに考えておったの。
いまから思えば、これが、落ち目になった左翼やら革新派やらが、
政府を困らせようとするなら、支那や朝鮮を焚きつけるのがなによ
りの妙手ぢゃと気がつくきっかけになった事件ぢゃった。
また、韓国政府にも日本相手には支那の尻馬に乗るのが上策という
味をしめさせた事件でもあったの。
岩波書店の世界という雑誌などには、韓国在住のインテリの匿名記
事というふれこみで、しつこく韓国政府や社会を誹謗する連載が続
いておったころでの、まだ韓国の肩をもつ進歩派やら人権派などは、
どこにもおらんようなありさまじゃったでのう。
さて、昭和59年には始めての来日韓国大統領として全斗煥がやっ
てきての、ほれ、例の昭和天皇の「まことに遺憾」というお言葉と、
大統領の「不幸な過去は未来開拓の礎」というやりとりがあったの
ぢゃよ。
このころは、どうやら韓国大統領が借金にやってきたなとは知って
いても、揶揄する日本人などおらなんだし、まさかこれが、大統領
が変るたびに繰り返し謝罪しろなどという話の始まりとはだれも思
うてはおらなんだ。
- 492 名前: これもぢゃ 投稿日: 2000/06/21(水) 20:40
- 昭和63年のオリンピックに向けたマスコミの好意的な特集記事も
出はじめての、韓国の経済成長とともに、一般の日本人の意識は、
それまでより鮮人に好意的であったくらいぢゃったの。
このあとのソウルオリンピックをめぐる騒ぎは、またのことぢゃ。
|
|
- 497 名前:名無しさん 投稿日:2000/06/22(木) 02:58
- ぢぢ様の語っているようなことを正しい歴史教育として日本史の1/3
ぐらい割いてやってほしいものだ。
- 498 名前:6才児 投稿日:2000/06/22(木) 04:37
- ぢーさん、指紋押捺の話はしないノ?
昭和57年(1982年)ていうと、外国人登録法改正されて、
指紋押捺開始が14歳→16歳に、切替え3年→5年ごとになった年ダネ
在日外国人に指紋押捺の義務が定められたのは1952年の
外国人登録法の制定がはじまりだヨネ。
でもこの時は強い反対運動があって、実際に施行されたのは
1955年だったヨネ。
その後も地道な反対運動が続けられていたけど、世論はあまり
盛り上がらなくて、一気にそれが動き始めたのが、
1980年代になってからだヨネ。
(韓宗碩氏の東京新宿区役所での指紋押捺拒否が1980年、
1984年に東京地裁が指紋押捺を拒否した韓宗碩氏に「罰金1万円」
の判決、1985年に2万人をこえる在日外国人が指紋押捺を拒否。)
それともこの話はミンナ知っているからヤラナイダケナノ?
|