コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。 |
3カ所追加
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まずは典型的な反日コリアンの"お説教"から |
「朝日ジャーナル」1988年2月26日号 (在日韓国・朝鮮人に問う 佐藤勝己 1991 亜紀書房より) |
1988年2月26日付「朝日ジャーナル」誌上で辛淑玉さんは
「仮に北が日本人を拉致したとしても日本人は批判できるだろうか。戦争中、膨大な数の朝鮮人を国家の名の下に拉致した歴史的な事実がある。いまなぜ日本に多くの朝鮮人がいるか考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる」 と言っている。 |
反日コリアンが日本人を黙らせる「決めゼリフ」
で「われわれは日本政府によって強制連行されてきた」というのがあります。 反日マスコミや左翼教師に洗脳された人たちがこの言葉を聞くと、『銃剣で脅されてトラックに無理矢理乗せられた善良な朝鮮人達が、日本に送り込まれて炭坑で重労働させられる』 という酷い場面等を想像して思考停止に陥り、相手に反論できず言い分を聞いてしまうということが多いようです。 まるで水戸黄門の印籠を見せられた小役人のようです。 (笑) しかし資料を見ると実は強制連行でそのまま住みついたという人々はごく少数であることが分かります。反日マスコミや反日コリアンはこの事実を知ったうえでの報道・発言でしょうか? |
在日コリアン1世のほとんどが強制連行(徴用)と関係ないことは彼ら自身の調査で明らかです。 |
「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」 1988 在日本大韓民国青年会中央本部刊 | |
アンケート調査実施の概要 1.調査の対象 在日韓国人で1910年〜45年の間に日本に渡航してきた者(ただし、渡航時に満12歳未満の者は除く) 2.調査の時期 1982年10月25日〜1983年1月15日 3.調査の方法 国民登録台帳をもとに各地方に居住する在日朝鮮人の人数にほぼ比例するように調査票を割り当て、訪問面接による聴取を行なった。 アンケート回収数 1106名 |
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これによると、大部分は本人の自発的な意思で渡日したもので、いわゆる"強制連行"が原因で日本に住みついた人は全体の13.3%しかいないことが分かります。しかし早い時期に渡日した人はすでに亡くなっていること、また家族の一員として渡って来た12歳未満の子供は含まれていないので割合はこれより下がります。さらに戦後渡ってきた者(密航?)を含めるとさらに低下します。 |
上記資料の分析で徴用(強制連行)数に疑問を呈しています。どうやら本当の強制連行者はさらに少なくなるようだ。 |
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89 原書房 (グラフは「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」より) | |
現在の在日韓国・朝鮮人の大部分は強制連行と無関係
さらにここで指摘しておきたいことは、在日韓国・朝鮮人(その父祖を含め)と、 強制連行との関係である。朝鮮大学校編「朝鮮に関する研究資料(第四集)」によ れば、「日本に住んでいる大きな部分を占める朝鮮人は太平洋戦争中に日本の官憲 によって強制徴用され……」とあり、在日韓国・朝鮮人は口を開けば必ずのよう に、「われわれは日本政府によって強制連行されてきたものだ」と主張する。だが この表現は正確ではなく、むしろ事実に反するというべきだと思われる。 1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸年は上の表のようになっている(表省略・昭和20年9月1日以前の日本上陸者の内8万3030人の調査)。この表によると日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが全体の53.7%と、半分以上になる。昭和11〜15年はまだ民間の自由募集の期間だし、次の昭和16〜19年の中でも、国民徴用令による徴集は昭和19年の9月以降のわずか4ヵ月間であるから、単純に計算すると、この期間に徴用されたものは昭和16〜19年間の1万4514人の12分の1、つまり1210人(全体 の1.46%)にすぎないことになる。これに、次項「昭和20年9月1日以前」 の679名(0.8%)を加えた概算1889人(2.3%)ほどが、真に強制連行の名に値する在日朝鮮人だということになる。かりに「官あっせん」を強制徴用の概念の中に入れ、官あっせんが行われていた昭和17年2月〜19年8月来日者の推計数を全部加えても、約1万1300人余(14%)にすぎない。この推定は、昭和16〜19年間の月間 来日数を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡船の運航は終戦が近 くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、昭和19年後半の来日徴用者も減少し ているはずである。すなわち、どんなに強制連行の概念を広く解釈しても10%を大 きく超えることはまずあるまい。 民団も韓国青年会も自認 この数字は在日韓国人自体の調査によっても裏付けられている。1988年2月に 発刊された「”我々の歴史を取り戻す運動”報告書」(在日本大韓民国青年会中央本部)には、全国千百余人の一世から直接聞きとりした調査結果が収録されてい る。これによると、渡日の理由として「徴兵・徴用」は13.3%にすぎず、経済 的理由(39.6%)、「結婚・親族との同居」(17.3%)に次いで3番目で ある。この13.3%のうち、徴兵は0.5%で、残りが徴用ということになる。
このことは理屈の上から考えても当然のことであろう。着のみ着のまま徴集され、人里離れた炭坑や鉱山で虐待酷使されていた者が、日本に残ろうと考えることは想像しがたいことである。彼らは日本の一般社会とほとんど関係なく生活してきたのであって、言葉もろくに出来ず、日本で生活していく基盤ももっていない。彼らは日本に来て、一番長い者でも (官斡旋を徴用とみなしても) 5年そこそこなのであるから、故郷とのつながりは十分持続しているはずである。特に彼らは、妻子を置いて一人だけで徴用されており、その移動はきわめて容易であった。これら徴用された人々の大部分は終戦直後早々に、この、"恨みの島"から故郷へと飛ぶようにして帰ったものとみられる。 |
在日青年会の調査を分析すると本当の強制連行者といえるのは全体の1.5%に過ぎないようだ。広く解釈しても5.9%である。 |
実地調査でも「在日1世強制連行少数説」は裏付けられています。 |
「在日韓国・朝鮮人」 福岡安則 1993 中公新書 |
私は、1988年以降、若い世代の人たちを中心に150名余りの在日韓国・朝鮮人からの聞き取りを実施してきたが、自分の親もしくは祖父が「強制連行」で日本に連れてこられたという人には一人も出会わなかった。ただ一人伯父が「強制連行」で北海道の炭坑に連れてこられ、そこで「事故死」にあった("殺された"といっていいと思う)という事例を聞いているだけである。 (中略) 私の調査体験をもって、安易な結論を導き出すことは慎まなければならない。だがそれにしても、文字どおりの「強制連行」で日本に連れてこられた人達の大部分は母国に帰り、それ以前に仕事を求めて渡日してきた人たちが中心になって日本に残留した、という一般的傾向が認められると思う。 |
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画 |
徴用された朝鮮人は、終戦と同時にほとんど帰国しており、今日在日朝鮮人が声高に、自分たちの父母は『強制連行』されたと言い立てるのは、他に目的あってのことと考えざるを得ない。 かつて朝鮮人学校で父母の来日動機を調査したところ、『朝鮮では食えないから渡航して来た』という回答がほとんどで、『強制連行』と答えたのは一人しかいなかったので困惑したという報告があるそうだが(田端元「好太王から朝鮮滅亡後まで」十六)、さもありなんという気がする。 |
徴用(強制連行)の実態 |
戦時中の朝鮮人労働者内地導入には3段階あったことと徴用令の関係を理解しましょう。 |
「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社 |
「1939年(昭和14年)から1945年までの間に約70万人もの朝鮮人の人々が強制連行によって日本につれてこられたとされています。」. 中学校の教科書では上のように強制連行という言葉を使っています。そして、いやがる人に暴行を加え、手錠をかけて無理矢理連れて行く様子を描いています。それが6年間続いたと教えているのですが、本当でしょうか。 1938年(昭和13年)に、日本の国会で国家総動員法(国民徴用令は1939年)が成立しました。この法律によって、15歳から45歳までの男子と、16歳から25歳までの女子を、国家は徴用できるようになりました。「徴兵」が兵士になる義務であるように、「徴用」とは、戦時に一定の労働に従事する義務のことです。多くの若者が出征し労働力不足が深刻になり、その穴を埋めるためにやむなくこの法律を作ったのです。 徴兵と同様に、国民は、通知された場所に出頭し、指定された軍需工場などで働きました。当時の日本国民のほとんどは、この徴用を国家非常時の当然の義務だと考えていましたから、進んでこれに応じました。 さて当時、法的には「日本国民」であった台湾や朝鮮では、この法律はどのように適用されたのでしょうか。台湾では、日本本土と同時に徴用令が施行されましたが、朝鮮では施行されませんでした。その代わり、日本企業が朝鮮で自由に労働者を「募集」することを許可しました。それまでは、朝鮮人労働者が大量に本土に流入すると失業者が増加するので、日本政府は朝鮮人労働者の移住を制限していたのです。制限を取り払ったので、多くの朝鮮人労働者が日本にやってきました。 けれども、1942年(昭和17年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを「官斡旋」といいました。官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。例えば、ある朝鮮人労働者は、官斡旋で本土に来たのですが、なじめなかったかすぐに辞めています。そして、友人を頼って朝鮮人経営の土木会社に就職しました。正規に住居移転の手続きをして、食糧の配給も受けています。 朝鮮にも「徴用」令が施行されたのは、1944年(昭和19年)になってからでした。けれども、総督府では、なるべく自分の意思で徴用に応じてほしいと願い拒否した者への罰則の流用を控えました。そのため目標の達成率は79パーセントにとどまりました。 1944年11月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。 「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版) 鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。 これは教科書が描き出す「強制連行」のイメージとはまったく異なっています。 |
「日韓誤解の深淵」 西岡力 1992 亜紀書房 |
また、いわゆる「強制連行」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「官斡旋」による道外募集(いわゆる強制連行の一部とされている)では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている(くわしくは広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』第29集参照)。 また、1944年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90年に日本で出版した手記(『朝鮮人徴用工の手記』河合出版)の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった」と書いている。 先述のように戦争のために国家総動員法による徴用には法的強制力があった。それにより韓国人が強制連行されたが、同様に大多数の日本人も「強制連行」されたというのが歴史の真実なのである。 |
戦争初期には朝鮮人は日本人・台湾人に比して優遇されていたのが分かる。「官斡旋」の段階でも本人の希望で就職先を変えられることから"強制連行"というのは大げさな表現だ。 |
コリアン・反日左翼は「募集」の段階から"強制連行"だとしているが、当時朝鮮から日本内地へは渡航制限をしていたが、密航してでも出稼ぎしようとする朝鮮人が一杯いたというのに、何で強制連行の必要があるのだろうか。"強制連行"などしなくても労働者は確保できたのである。 |
「岩波講座 世界歴史19 移動と移民」 水野直樹・他 1999年 岩波書店 |
1930年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。 |
戦前の新聞記事見出しより |
『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』
福岡日日 1938/1/30 『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3 『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3 『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29 『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2 『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21 『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24 『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26 『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1 『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17 『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20 『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21 『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3 『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12 『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13 『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18 『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5 『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕 『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版 『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30 『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕 |
在日朝鮮人人口の推移 |
在日朝鮮人人口動態 内務省警保局統計 他 | |||
年度 | 在日朝鮮人数 | 増加人口数(前年比) | 特記 |
1910 | . | . | 韓国併合・朝鮮で「土地調査事業」〜1918 |
1915 | 3989 | ||
1916 | 5638 | 1649 | |
1917 | 1万4501 | 8863 | |
1918 | 2万2262 | 7761 | 第一次世界大戦終了・日本で米騒動 |
1919 | 2万8272 | 6010 | 朝鮮で3.1独立運動起こる・朝鮮人の渡日制限〜1922 |
1920 | 3万0175 | 1903 | 朝鮮で「産米増殖計画」〜1934 |
1921 | 3万5876 | 5693 | |
1922 | 5万9865 | 2万3989 | 日本への「自由渡航制」 |
1923 | 8万0617 | 2万0752 | 関東大震災 |
1924 | 12万0238 | 3万9621 | |
1925 | 13万3710 | 1万3472 | 再び日本への「渡航制限」〜1938 |
1926 | 14万8503 | 1万4793 | |
1927 | 17万5911 | 2万7408 | |
1928 | 24万3328 | 6万7417 | |
1929 | 27万6031 | 3万2703 | |
1930 | 29万8091 | 2万2060 | 日本に世界恐慌が波及 |
1931 | 31万8212 | 2万0121 | 満州事変(日中15年戦争の始まり) |
1932 | 39万0543 | 7万2331 | 満州国建国 |
1933 | 46万6217 | 7万5674 | |
1934 | 53万7576 | 7万1359 | |
1935 | 62万5678 | 8万8102 | |
1936 | 69万0501 | 6万4823 | |
1937 | 73万5689 | 4万5188 | 盧溝橋事件で戦火拡大 |
1938 | 79万9865 | 6万4176 | 国家総動員法が成立 |
1939(昭和14年) | 96万1591 | 16万1726 | 国民徴用令が成立(朝鮮に適用されたのは 1944年9月から) 「募集」 日本企業が朝鮮で自由に労働者を募集することを許可 |
1940 | 119万0444 | 22万8853 | |
1941 | 146万9230 | 27万8786 | 真珠湾攻撃で日米開戦 |
1942 | 162万5054 | 15万5824 | 「官斡旋」 総督府が朝鮮人労働者を募集 |
1943 | 188万2456 | 25万7402 | |
1944 | 193万6843 | 5万4387 | 「徴用」 法律により労働を強制された |
1945(昭和20年) | 210万0000 (諸説あり) |
. | 終戦 |
1946年3月18日 | 64万7006 | . | 厚生省による在日朝鮮人の登録 (この時登録しない者がいたので100万人程いたと書く本もあり) |
. | |||
1999年末 | 54万6553 | . | . |
昭和14年から開始された朝鮮人内地移送計画の実態 |
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画 |
◇その多くは自発的に来日 誤解の第一は、終戦時約200万人を数えた朝鮮人労働者の大部分は本人の自発的な意志によって渡航して来たもので、『強制的』に『連行』されたものではない、ということである。いわゆる『強制連行』は、大東亜戦争勃発に伴う労働力不足を補完するため、戦争中の昭和17年(1942)に、それまで自由募集であった朝鮮人労働者を『官斡旋』、すなわち朝鮮総督府が募集することにし、間に立った朝鮮人ブローカーが強引な徴用を行ったことを指して言う場合多いようだが、その実態ははなはだ不明瞭である。 そもそも日韓併合以降、貧しい韓国から豊かな日本へ移住しようとする朝鮮人は引きも切らぬ有り様だったのであり、朝鮮総督府や日本政府は法律の網の目をくぐってでも日本で働こうとする朝鮮人の密航者には、終始頭を痛めていた。法律を犯してでも日本に入国しようとする朝鮮人が一杯いたというのに、何で『強制連行』の必要があるのだろうか。その必要はなかったし、むしろ日本側は迷惑していた。昭和4年(1929)の『瀬戸方面に於ける朝鮮労働者事情』(名古屋地方職業紹介所)によれば、朝鮮と日本内地の賃金格差は二倍もあり、これに加えて毎年30万人に及ぶ朝鮮人の人口増加により、内地のみならず満州やシベリアへも多数の朝鮮人が移住しつつあった。日本内地への渡航希望者は度重なる日本側の規制にも拘わらず増加の一途をたどったのである。 昭和14年(1939)、内務省次官通牒『朝鮮人労務者内地移住に関する件』で、8万5000人の朝鮮人労働者の移住が認められると、炭坑の募集係のところには朝鮮人農民がどっと押し寄せ、夜中から列をなして待っていた有り様であったという。 また、同年の国民徴用令の公布をもって朝鮮人『強制連行』の起源と誤解している著作が多数見受けられるが(朝鮮人強制連行真相調査団「強制連行、強制労働の記録」、朴在一「在日朝鮮人に関する総合調査研究」等)、国民徴用令が朝鮮人にも適用されたのは昭和19年9月のことであり、厳密に言えば朝鮮人の徴用が行なわれた期間は昭和19年9月から関釜連絡船の閉鎖された昭和20年3月までの6ヶ月間に過ぎない。 ◇徴用は強制連行ではない 誤解の第二は、『徴用』は『強制連行』ではないということだ。当時、内地でも日本人は戦時『徴用』されていた。併合の結果として日本に編入された以上(植民地ではない)、日本人たる朝鮮人を戦時『徴用』しても、『強制連行』の概念には当らない。今日の価値観を、体制の異なる戦時中にそのまま適用するのは歴史解釈として間違っている。 |
産経新聞 平成12年9月26日 西岡力氏の寄稿 |
自民党の野中広務幹事長の「かつてわが国が36年間植民地支配をした時代に、朝鮮半島から(強制)連行してきた人たちが、今70万人といわれる在日を構成している」という発言を本紙で読み、事実に対するここまでの無知はないと驚きを超えて怒りすら覚えた。明確な事実誤認が三つある。
第一は、昭和14年から開始された朝鮮人内地移送計画により渡日した者とその子孫は現在の在日の中にほとんどいないという点だ。終戦時の在日人口は約200万人であり、そのうち移送計画による労働者は32万人に過ぎない。占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備し、運賃無料、持ち帰り荷物制限230キロまでという条件で帰国させた。昭和21年末までに約140万人が朝鮮に帰っていき、自分の意志で残留を希望した約60万人が日本にとどまった。引き揚げにあたっては移送計画により渡日した労働者が優先とされている。結果として、32万人の「連行者」はほとんどこのとき帰国している。このことは在日一世の渡日時期調査によっても裏付けられている。 第二は、そもそも上記の朝鮮人内地移送計画の実態が「強制連行」などというものではなかったという点だ。計画期間中、在日人口は120万人増加する。各種統計を総合すると、このうち出稼ぎ渡航者とその家族が63万人で過半数となる。戦時中、労働者不足が激しかった内地に向かい朝鮮人は自分の意志で大量に渡航していたのだ。前記の32万人が終戦時における戦時動員労働者である。残り25万人は「官斡旋(あっせん)」「徴用」で渡日した後、現場を逃走し条件のよい飯場などで働く「自由労働者」(当時の用語)となった者である。昭和20年内地における朝鮮人土建労働者を見ると、計画による動員労働者一に対して自由労働者七の割合であった。日本政府は移送計画実施期間中も内地に密航した朝鮮人を取り締まり朝鮮に送り返していた。こちらこそが本当の強制連行だ。「官斡旋」「徴用」は出稼ぎで建設現場などで働こうとしていた朝鮮人労働者の働き先を炭鉱、金属鉱山など軍事産業に転換させるというものであり、それは全渡日者のうち四分の一だけしか対象にできず、ほぼ失敗した政策だったのだ。 第三は、戦前から継続して日本に在留しつづけている在日韓国・朝鮮人(子孫含む)でいまだに外国籍を維持したままの者は70万人ではなく約52万である。日本政府は彼らに「特別永住」という他の外国人にはない特別に優遇した法的地位を与えている。社会保障制度も日本人と同じ扱いがされ、その地位は子孫代々まで保障されている。この52万人以外の在日韓国・朝鮮人はいわゆる戦後入国者だ。 外国人地方参政権付与は基本的事実関係すら知らない与党幹部によって推進されている。事実に基づかない安易な贖(しょく)罪意識は百害あって一利なしだ。参政権が欲しければ帰化手続きにより日本国籍をとればよい。すでに23万人以上の韓国・朝鮮人がそれを選択している |
反日プロパガンダが保守政党にまで浸透しているのか、それともただの無知なのか。いずれにせよ立法府の由々しき事態だ。 |
朝鮮と台湾では同じ植民地でありながら徴用(強制連行)に対する受け取り方がまったく異なっています。あなたはどちらが真実に近いと思いますか? |
朝鮮人の強制連行(徴用)について中学校教科書に書かれたものです。 |
「国民の油断」 西尾幹二・藤岡信勝 1996年 PHP研究所 |
次の教科書の記述を見てほしいのです。 [強制連行のようす] 町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたりしだい、役にたちそうな人はかたっぱしから、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用というが、人さらいですよ。(大阪書籍、260ぺ−ジ) [朝鮮人強制連行] 警察官や役人が土足で家に上がり、寝ている男を家から連れ出すこともありました。抵抗する者は木刀でなぐりつけ、泣きさけびながらトラックに追いすがる妻子を上からけりつけたともいわれます。(東京書籍、264ぺージ) [朝鮮・中国から強制連行された人々] 金大植さんは、1943年2月、家で寝ているところを警察官と役場の職員に徴用令状をつきつけられ、集結地まで手錠をかけられたまま、125名の朝鮮人同胞とともに日本に連行されてきた。(教育出版、262ぺ−ジ) すべてこういう調子です。 |
Link 日本政策研究センター / 朝鮮人「強制連行」問題とは何か(上) / (下) 『「人さらい」同然の連行、「使い捨て」さながらの酷使、それに堪えかねて逃亡する朝鮮人……しかし、そうした「強制連行」論は、あまりにも戦時動員や労務事情と違っている』 |
戦争末期に深刻化してきた内地の労働者不足を補うための朝鮮人労働者内地移入では一部に行過ぎがあったようで、強制連行を主張する韓国人の証言を読んでいると、農作業中などに無理矢理トラックに乗せられて日本内地へ送り出された、というのがあるが、それらを実行したのは内地人ではなく朝鮮人なのである。 |
「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社 | |
もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただし)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。 |
「朝鮮人強制連行」という言葉を造語し世に広めたのは、朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」という本であるといわれているが、この中で強制連行があった証拠として、上記の鎌田沢一郎著「朝鮮新話」が引用されているが、傍線を引いた朝鮮人が暴走して実行したという部分はなんと無視されているのだ。両書を見比べていただきたい。 |
鎌田澤(沢)一郎著「朝鮮新話」320ページ | 朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」1965年未来社発行70ページ | |
引用書籍のページ |
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まだまだあるぞ「朝鮮人強制連行の記録」のデタラメ (怒) Link 中共・朝鮮・左翼の歴史改竄 真実よりプロパガンダ! / 朴慶植の卑劣な削除改竄 |
歴史教科書の一部には強制連行の実態として『田畑で働いていた朝鮮人を有無を言わせずトラックに乗せ日本内地の炭鉱などに送り込んだ』等と書いているが、総督府の方針を曲解暴走して人さらい同然の行動を起こしたのは朝鮮人自身であったことを明記すべきだ。 このような非道な行動を起こす朝鮮人の性格を警告している文章があるので紹介しよう。 李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあったホーマー・ハルバートは著書「朝鮮亡滅」(「醜い韓国人」朴泰赫 1993年 光文社より)の中で、『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするいう努力があわれにもないのに、社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』と述べている。 |
台湾人の"強制連行"が教科書に書かれることはない。事実を書くと反日教科書の編集方針と合わなくなるからか?(笑) |
韓国人の「反日」 台湾人の『親日」 黄文雄 1999 光文社 |
「朝鮮人の強制連行」問題の著作物は、地方の公立図書館へ行くと、意外なほど多い。戦前の日本国内では、朝鮮人の犯罪者が多かったので、いかにして朝鮮半島からの人の流入を釜山港で阻止するかに悩み、たびたび朝鮮総督府に有効な対策を求めていた。だが、「朝鮮人の強制連行」問題の著書があれほど多くても、「犯罪」「入国阻止」関連研究書は、大学図書館でさえほとんど見いだすことが困難だ。 (中略) 韓国人の著述には、「日帝36年」について「強制連行」「強制労働」「強制徴集・徴用」と表現することが多いが、その「強制連行」とは、じつは大陸文化そのもので、戦争や動乱があるたびに、住民が「強制連行」されたことは、中国史にも、朝鮮史にも繰り返し書かれている。しかし、日本文化は、中国社会や朝鮮社会とはかなり異なる。近代になって、台湾に対しても、朝鮮半島に対しても、いかなる公的な義務労働であろうとも、多かれ少なかれ、工賃を払うのが日本的なやり方であった。このことからも、日本文化は、中国や韓国の社会文化とはまったく違うことが判明する。 台湾領有初期の日本軍の征伐戦争・戦記、日記を見ると、住民を略奪しながら敗退、逃亡した清国兵士に対してさえも、米と銭を与え、船で港から大陸へ送還した。地方の村長、長老を集めて訓示した後でも銭を与え、細かい気配りをしていた。そのような日本的気配りは、中国や朝鮮半島では、絶対に見られないことだ。 韓国人の「日帝」糾弾のバターンは、たいてい決まっている。それはあたかも日帝のすべての悪事悪行が隠蔽されてきたが、それが次から次へと考古学や犯罪事件摘発のように発掘されていくという図式である。 第二次大戦末期に、台湾からも多くの少年工が来日している。しかし、彼らは「強制連行」ではなく、厳しい選考をへて、来日が許可されたのだった。 「強制連行」については、台湾人の子供まで連行され、海軍飛行場の建設工場で、酷使され、息を引き取ったと韓国有力紙に報道されたこともある。 この「子供強制徴用の実態」に関して、あたかも「歴史発掘」のように、韓国では一時、歴史捏造に狂奔した。 「東亜日報」(91年10月23日付)は、「神奈川県で12から18歳の台湾少年工8000名が、軍需工場で強制労働させられていたことが明らかになった。しかし、8歳の少年強制労働と火葬というのは、ひょっとすると日本全国で初めて確認されたことではないだろうか」と日本の大学教授の発言を引用して報道している。 日本の反日大学教授も不勉強であるが、韓国のマスコミも「反日」の話題でさえあれば、なんでもかんでも派手に報道するという姿勢は問題であろう。 じつは、台湾少年工についての歴史捏造と歪曲ほどひどいものはない。 戦争末期、台湾から日本に来た8000名の台湾少年工は、主に名古屋、大和市、群馬県の戦闘機工場で働いた。彼らは「強制連行」ではなく、厳しい筆記試験に合格、さらに身体検査にも合格、校長と両親の許可を得て来日したものであった。「強制連行」どころか、現在でいえば「東大入試」の狭き門をパスした誇りある少年たちである。私が直接彼らから聞いたところでは、「隼」以外に「ゼロ戦」をつくったという人もいた。 彼らは現在「高座会」をつくり、生存者は70歳前後になっているものの、なおも5000人以上の会員を有している。会誌も発行されている。十数歳の台湾少年工の作詞、作曲した会歌は、日本の寮歌に似ていて、合唱するとじつに感動的である。 彼らは日本人の友人との絆が強く、94年の大和市の大会では、2000人以上の会員が台湾から来日し、大和市は、交通大渋滞となるほどであった。当時、日本のマスコミは、彼らを「強制連行」と報道したため、自尊心を傷つけられ、会長が会員全員を引き連れ、新聞社へ抗議に行くという話もあったほどだ。 戦争末期の米軍空襲下でともに働いてきた台湾人と日本人は、上官と部下の関係のみでなく、その絆もなかなかに強い。私は台湾から来た昔の少年兵を連れ、かつての日本人仲間の病気見舞いや、老後の不遇者の生活の面倒に奔走する戦友を案内したこともあった。日帝の「暴挙」ばかりを追及してきた韓国人には、日本国民として育てられ、ともに国家の存亡をかけた情熱と戦友としての絆は理解できないだろう。この5000人以上の証人について、日本人ももっと「歴史」を勉強する必要があるのではないだろうか。 彼ら韓国人が、いかに「強制連行」「虐殺」「追害」だけを喚(わめ)いているかを示唆するような話ではないだろうか。 |
徴用を強制連行と呼ばせるのは悪質な反日プロパガンダ |
韓国人が強制連行を問題とするなら、なぜこれが取り上げられないのか? |
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社 |
しかし韓国人が日本に対してだけ怒りを向けるのも、論理的ではない。太平洋戦争前に、ソ連のシベリア沿海州に30万人以上の韓国人が住んでいた。ところが、スターリンがこれらの韓国人が日ソ戦争が起こった場合に日本に協力することを恐れて、中央アジアへ強制移住させた。スターリンは妄想にとらわれた暴君だった。カザフ科学アカデミー朝鮮民族センターの調査によると、移住する過程で12万人が死んだ。だが、政府も、マスコミも、ロシアに対して抗議の声をあげることがまったくなく、友好的である。 |
明らかにダブルスタンダードだ。"強制連行"問題が反日政治運動の一環であるのが分かる。 |
考証 : 朝鮮人渡日の原因となった朝鮮総督府の施策 | |||||||||||||||||||||
スペース空きスペース | 在日コリアン1世強制連行説を声高に唱えない人は、かわりに、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと言います。 しかし本当のところは総督府の近代医療・衛生施策の成功で人口が爆発的に増え、その朝鮮の過剰人口が移民を促したのです。(現在の韓国は世界有数の人口密度で戦後はアメリカへ移民し続けた) |
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朝鮮総督府は土地調査を行い近代国家の基礎となる土地所有権を確立した。係争地では土地所有を認められる者と認められない者が出たが、日本人によって土地を奪われたというのは事実誤認である。 | |||||||||||||||||||||
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日本が土地調査を進めて農民たちから農地を取り上げたというのは事実誤認である。 | |||||||||||||||||||||
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.李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、多くが小作人でその割合はかなり高かった。当然ながら小作人に土地所有が認められることはない。 | |||||||||||||||||||||
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.朝鮮人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったであろう。 | |||||||||||||||||||||
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在日コリアンは、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと主張していますが、当事者である在日1世の多くが土地調査事業が行なわれたことを知らないのです。 | |||||||||||||||||||||
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当人たちが知らない"土地調査事業"を渡日理由にしたというのは、後知恵だろう。(笑 という訳で『土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきた』という主張は、どうやら正しくないようです。 |
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日本は朝鮮農業を近代化して農民(大多数の国民)の生活向上を実現した。欧米型植民地経営とはまったく違うこの現実を見れば「朝鮮を収奪した」という言葉はあてはまらないはずだ。 | |||||||||||||||||||||
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悲惨な状態だった李朝時代の農業環境と朝鮮農民 | . | ||||||||||||||||||||
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李朝時代は農業土木が遅れていて自然任せの不安定な農業だった。 | |||||||||||||||||||||
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河川堤防がなく、灌漑設備もないため耕作できない土地が広大にあった。 | |||||||||||||||||||||
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李朝時代は現在の北朝鮮のように餓死者のでる国だったのだ。 | |||||||||||||||||||||
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搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち | |||||||||||||||||||||
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絶望の世界に生きていた朝鮮人。働いても自分すら養えないという、これほど理不尽な話はない。 | |||||||||||||||||||||
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日本統治によってまともになった農業環境と朝鮮農民 | . | ||||||||||||||||||||
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総督府により農業基盤整備が行われ、朝鮮人農民に多大な利益をもたらした。 | |||||||||||||||||||||
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朝鮮農民の手本だった日本人農民(労働が報われる時代がやってきた) | |||||||||||||||||||||
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朝鮮農業近代化に尽力して感謝された日本人 | |||||||||||||||||||||
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総督府の農業政策が成功して米の収穫が倍増 | |||||||||||||||||||||
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総督府による農業政策の成功で飢饉がなくなり餓死者がいなくなった事と、近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったうえ乳幼児死亡率の低下で人口が爆発的に増加していく。 (なんと植民地36年で倍増) | |||||||||||||||||||||
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日韓併合以前のソウル・釜山は極めて不衛生な都市だった。伝染病がしばしば起こり多くの人々が死亡した。 | |||||||||||||||||||||
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総督府による近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったことと、乳幼児死亡率の低下で人口が大幅に増加していく。韓国人と反日左翼は総督府の植民地経営の善政を一切認めないが、これは輝かしい成果の一つではないのか? | |||||||||||||||||||||
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朝鮮人人口の推移、急激な増加がみてとれ李朝時代と比べると倍増している。 総督府は農地開拓を進めて農業人口を増やしたが、それ以上に人口が増加した。 | |||||||||||||||||||||
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ココ重要です。朝鮮人渡日の原因を強制連行と土地収奪に求めている反日連中は、人口の爆発的増加を無視しています。HPや関連書籍を読む時ぜひチェックしてみてください。 | |||||||||||||||||||||
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人口の増加は日本だと商業・工業の発展で吸収していったが、朝鮮の場合過剰人口は半島外に活路を求めた。北部の者は満州へ農業移民となり、南部の者は日本へ賃金労働者として移り住んだ。これが現在の在日コリアン1世である。 | |||||||||||||||||||||
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農家の過剰人口である土地を相続できない次男三男は、分家の手段として日本での労働・移住を選んだ。 | |||||||||||||||||||||
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日本でも生活意識の変化で、若者が農村の生活を嫌って都会へ流出していった。同じようなことが朝鮮でも起こったのであろう。 | |||||||||||||||||||||
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農家を相続できない次男三男が仕事を求めて日本に渡って来たというのは、在日1世の平均渡日年齢が19.1歳と非常に若いことからも推測できる。 | |||||||||||||||||||||
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「土地を奪われた農民が仕事を求めて日本にやってきた」という主張が間違っているというのは、土地を所有していたと考えられる壮年層の渡日がほとんどないことからも推測できるのではないだろうか。(もっとも、この調査時点(1982年)で亡くなっているのかもしれないが) | |||||||||||||||||||||
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朝鮮人の内地移住は、朝鮮では食べていけない貧困層の過剰人口が内地へ押し寄せてきたものである。 | |||||||||||||||||||||
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反日コリアンは、朝鮮人が日本内地で働くことを余儀なくされたのは、総督府が朝鮮の商工業発展を抑圧していたから雇用場所がなかったためだと言うが、元々李朝時代から商業・工業とも振るわなかった。急に産業化できるわけがない。日本の江戸時代のような繁栄を想像していたとすると大間違い。 | |||||||||||||||||||||
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スペ結論ース |
あまり語られることのない不法入国者(うまくいけば在日コリアン1世になれた?) |
「在日朝鮮人の生活世界」 原尻英樹 平成元年 弘文堂 |
サンフランシスコ講和条約発効以後大韓民国からの不法入国が在日朝鮮人の親戚を頼るなどの形をとって行なわれたが、その実数は把握できない。検挙された者の数のみを表7に示すが、密航に成功した者がどれだけいるか定かではない。 成功したものは後になって特別在留という形で在留を許可されろケースもあるが、不法入国のままの者もいると思われる。 隣国韓国から日本には実に容易に行けるので、密航の取り締まりは簡単にはいかない。夜の日本海には大小無数の漁船が浮かんでおり、海上保安庁の係官は挙動不審の船を彼らの勘でかぎ分け、その船のみを取り調べるという。 しかしながら、密入国者が日本で生活を続けるためには彼らを援助する親戚・知人が必要であり、また日本語能力と関わって働く場所も限定されるので、密航者家族の生活は勿論のこと、単身者での生活も容易でないことが想像される。 1945年 終戦 1948年 大韓民国成立 1948年 朝鮮民主主義人民共和国成立 1950年 朝鮮戦争勃発 1952年 サンフランシスコ平和条約発効 |
密入国者はかなりの人数にのぼるようだ。 |
朝日新聞 1955年8月18日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より) |
65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという。 |
朝日新聞 1959年6月16日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より) |
密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ。 |
朝日新聞 天声人語 1959年12月15日 |
韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる。 |
Link 産経新聞 / 昭和25年(1950年)6月28日(水)付朝刊 終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる。 |
密航ではないかもしれないが千葉市の韓国・朝鮮人街栄町に住む韓国人の7割が不法残留者 Link asahi.com千葉 / 企画特集 [このまちで 栄町讃歌] |
「コリアン世界の旅」 野村進 1996 講談社 |
日本敗戦による「解放」の喜びもつかのま、済州島は大混乱の予兆をはらみつつあった。8月15日以降、日本本土のほか戦前の樺太や満州、南方などに徴用でとられたり移住したりしていた人たちが、一斉に帰郷してきたのである。15万人の島内人口は、あっというまに倍以上の30数万人に膨れ上がった。香川県ほどの広さの、痩せた火山島には、彼らを養う余地などどこにもなかった。食糧事情は、目に見えて悪化した。日本の植民地下では許されなかった買占めや売り惜しみが横行した。敗戦国・日本に見切りをつけて帰ってきたところが、故郷の窮状たるや日本どころではないではないか。やむなく日本にまた引き返していく人々が、皮肉なことに「解放」の翌年あたりから急増する。これに追い打ちを掛けるように、1948年から49年にかけて、済州島史上最悪の惨事が起きた。島全体が戦場と化して、虐殺と放火と強制移住に覆い尽くされた、いわゆる「済州島4・3事件」である。(島民3万人が殺された) (中略) 逃げ場は日本しかなかった。命がけの選択の結果が日本への密航だった。彼ら密航者たちは『潜水艦組』と称され、近年の中国からの不法入国船と同様の小舟や漁船で、着の身着のまま日本に辿りついている。『潜水艦組の1人』という50代のある男性は、日本人の『常識』とは逆のことを私に告げた。 『済州島(出身者)だけじゃなく、在日の半分以上は、密航で来たんだと思うんですよ』 在日のほとんどは、強制連行で連れてこられた1世かその子孫ではないのか。 『いや強制連行で来て、今もいるという人は非常に少ないです。強制連行で来た人たちは、軍需工場なんかに徴用された人も、密航で働いた人も、戦後かなりの人が帰っているか亡くなっているんですよ』 次の2点を明記しておきたい。強制連行された朝鮮人のほとんどは、戦後間もなく日本政府の計画送還で帰国していること。在日1世の大半は、戦前から日本に住みつづけているか、戦後、密航できたのかどちらかであるということ。これらは研究者の間ではすでに定説となっているのだが、日本人一般には正反対の言説が『事実』であるかのように漠然と信じ込まれてきた。その最大の原因は日本のマスコミの認識不足だが、在日の特に知識人が往々にして『私たちは無理やり連れてこられた』といった言い方をしてきたことにも一因がある。 …だが『無理やり連れてこられた』といった表現には。明らかに強制連行のニュアンスがこめられている。日本人側が在日についてあまりにも知らないことが問題なのは言うまでもないが、在日側もこうした表現をいわば"切り札"にして日本人との議論を断ち切ってしまう場合が、ままあったのではなかろうか。 |
Link 在日済州島人の「不法入国」から「特別在留」獲得まで |
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在日自らが語る密入国 『トロク組とドンブリ組』 |
「在日韓国朝鮮人 -若者からみた意見と思いと考え-」 金容権・李宗良編 1985年 三一書房 | ||
在日朝鮮人を形成するのははたして<トロク組>だけだろうか。<トロク組>とは外国人"登録"証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人をさす。では、あえて<トロク組>とかっこでくくるからにはそれと対になるものがあると考えられはしないか。それこそが<ドンブリ組>にほかならない。密航船に乗って日本に"どんぶりこ"した朝鮮人を抜きに在日とはなにかと発問したところでそらぞらしさだけが残る。 (中略) では、次に<ドンブリ組>の実態論に移ってみることにしよう。一体に、<ドンブリ組>の大半が済州島出身ということは何を意味するのか。このことは済州島を故郷に持つ在日朝鮮人が大阪市(とりわけ生野区)を中心に9万人にのぼることと無関係ではない。日常性のひだに裂けた暗闇から日帝時代<君が代丸(大阪―済州島航路の客船)>に乗船していち早く日本に「金儲け(トンボリ)」しに来なければならなかった歴史性が浮上する。日帝時代の生活苦という鬼神が解放後なお跋扈し済州島の人間をして「金儲け(トンボリ)」するべく日本にかりたてている。たいがいは大阪市(とりわけ生野区)を中心に偏在する縁故を頼っての密入国だ。もっとも、<ドンブリ組>の密航目的は「金儲け(トンボリ)」だけに限定されるものではない。「金儲け(トンボリ)」を密航目的のその一つとして次にその他の目的を列挙してみる。 そのふたつ。「1948年4月、アメリカの強行による南朝鮮だけの単独選挙、単独政府樹立に反対して立ち上がった済州島4・3武装蜂起」(金石範「在日の思想」)が動因で引き起こされた虐殺から逃れた「難民、亡命者といった性質」をもつ密航。このケースでは解放された祖国に帰ったものが多数ふくまれている。日本への逆流現象。金石範氏は「現在の在日朝鮮人のあり方を規定したともいえるだろう」(「在日の思想」)と指摘している。 そのみっつ。アメリカのベトナム侵略が泥沼化したことで韓国政府がベトナム派兵を決定した1965年以降現れた「徴兵忌避」を目的とした密航。ほかに「離散家族の再会・同居」「思想的に拘束を受けない日本の大学での勉学」「病気治療」など。 さて、「法務省の推定では、数万人の密航者が、息をひそめるように生活しているといわれる」(朝日新聞84年3月7日「検証」)。生野区およびその周辺で育った在日朝鮮人の記憶にはなんらかの形で<ドンブリ組>の存在が影絵のようにゆらいでいるはずだ。ここではいくつかの記憶を発掘してみたい。(後略、密航者の来日動機や生活の実態が4例記されている) |
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外国人登録証を所持している<トロク組>といえども不正な手段で入手した密入国者もいる。以下、佐藤勝己著「在日韓国・朝鮮人に問う」1991年亜紀書房発行から 『ゆうれい登録証が大量に存在し、ある時期、対馬に登録証の製造工場があったといわれている… 敗戦直後日本から帰国した朝鮮人が再度日本に手続きなしで入国、それらの人に登録証が裏で売買された』 ----------------------------------- Link 朝鮮新報 / やさしい法律相談 Q&A 『本名、本籍や本当の生年月日が外国人登録と異なることが在日同胞の場合、多々あります』 『実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という氏を使用していました。戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校では「尹」の氏を使用しました』 |
朝鮮人の密航は戦後始まったのではなく、内地への渡航制限をしていた戦前からあったのだ。 |
「朝鮮人強制連行の記録」 朴慶植 1965年 未来社 |
1921―30年の渡航、帰還、居住人口は上表の通りである。(表省略)しかしこの数字以外に、渡航阻止制度のため証明書なしに、いわゆる「密航」したため送還された者が相当多い。1925年10月―1930年末に14万4839人の多きに上っている。 |
「密航」に関する当時の新聞記事の見出しのうち朝日新聞大阪版の一部を記します。 |
Link 亜細亜の歴史 戦前朝鮮人関係新聞記事見出し |
『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日
1921/7/15 『又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20 『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕 『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日 1926/4/7 『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日 1926/4/13 『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日 1926/4/17 『密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす』 大阪朝日 1926/4/20 『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日 1926/4/24 『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日 1926/4/29 『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日 1926/5/5 『生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて』 大阪朝日 1926/5/20 『依然と困る密航者/釜山署の大弱』 大阪朝日 1926/5/28 『戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人』 大阪朝日 1926/8/14 『鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で』 大阪朝日 1926/8/25 『さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋(水電工事にも)』 大阪朝日 1926/10/6 『渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少』 大阪朝日 1926/11/17 『密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸(豊浦郡川棚村)』 大阪朝日 1927/3/3 『夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見(五十余名)』 大阪朝日 1927/4/9 『密航鮮人/十余名捕る(田の浦海岸)』 大阪朝日 1927/4/20 『密航鮮人/蘆屋に上陸/目下取調中』 大阪朝日 1927/5/15 『怪機船/密航鮮人の輸送を企つ』 大阪朝日 1927/5/18 <以下略> 大量密航の記事 『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3 日本人に土地を奪われた朝鮮人農民が仕事を求めてやむなく渡日したという通説に反する記事 『密航鮮人逮捕/田地を売ってきた農夫たち/田野浦海岸へ上陸(門司)』 門司新報 1937/3/11 |
Link 朝鮮近代史研究のページ データベース戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索 |
3/3 |
韓国人の在日韓国人観 |
本国の韓国人が在日を見る目には厳しいものがある。 |
「韓国人が身勝手に見える理由」 中村欽哉 1996年 三交社 | |
「わたしは今日まで自分が生きることで精一杯でした。とても在日僑胞のことまで考えることかできませんでした。これが韓国の現実だと思います。しかし、在日韓国人は、総聯(在日本朝鮮人総聯合会)がいやなら民団(在日本大韓民国居留民国)、民団がいやなら中立、それがいやならカネもうけと自由に動いている。北であれ南であれ、本国にいる人にそんな自由はなかった。私たちがこういう人たちを信用できるでしょうか」。 次に在日韓国人が攻撃されるのは、出身身分だ。韓国人によれば「朝鮮半島で食いつめて、裸同然で日本に行かなければならなかった、"キオッ(ハングルでKの音)の字も知らない"(いろはのいも知らないに相当する)ような連中」とか、「朝鮮半島の南端の慶尚南道、全羅南道にいた貧農」が、在日韓国人になったのだという。朝鮮半島で食いつめた、無学で無教養の貧乏人が、なんとか食いつなごうと日本に渡って、それが在日韓国人の大半だというのである。在日韓国人そのものをハナから蔑視しているのである。韓国人が在日韓国人を非難するときには、「強制連行」した悪夢のような日帝の存在も忘れてしまうらしい。さらに「食いつめ」者にした犯人である日帝による「土地搾取」も非難されない。しかし、在日韓国人は韓国でそうはいわれながらも、日本にたいしては、「日帝によって、軍人として、また軍需工場や軍事施設現場の労働者として、朝鮮半島から強制的に犯罪者のように連行された人と、その二世、三世である」と説明している。 日本人よりずっと品がない その「貧農」で「食いつめ」た「キオッの字も知らない」連中が、日本の経済復興とともにお金を稼ぎ、故国を訪問しだしたのである。韓国人には、「パチンコ屋や食い物屋(社会的評価が低い)のような商売をして、金をつくり、それを見せびらかさんばかり、昔の恨みをはらすかのように使いまくる」ように見えたのであり、じっさいに在日韓国人が、「団体旅行で、凱旋するかのように祖国へきて、礼ビラを切り、女は買うわ(キーセン観光か)、バクチはするわ」したのである。在日韓国人は「日本人よりずっと品がない」と思われたのである。「パチンコ屋や食い物屋のような商売」を例にだすことで職業差別もしている。 しかも、「韓国国籍をもちながら祖国存亡の6・25動乱(朝鮮戦争)のとき、だれひとり馳せ参ずるものはなかった。だれひとりだよ。のみならず、日本に動乱ブーム(朝鮮戦争の特需景気)がおこり、君らはわれわれの犠牲のかげで巨利を博した。そして、母国に遊びにきては、これ見よがしに札ビラを切る。生命をはって祖国を守り、貧苦に耐えてきた同胞の目の前でだ。判るかね、君たち僑胞にたいするわれわれの気持ちが」と、韓国人が語っているように、朝鮮戦争で苦境におちいっていたとき、在日韓国人は、戦争に参加することなく、お金もうけにいそしんでいたと、考えてるのである。 朝鮮戦争のとき、在日韓国人は本当に、誰一人として駆けつけなかったのであろうか。駆けつけたという証言を紹介しておこう。 「大学生の時に、韓国で動乱が始まったわけです。朝鮮戦争と日本でいわれていますね。それで私は、韓国軍に志願兵として半島にわたったんですよ。在日僑胞志願兵として、最初の第一陣の百三十七名の一人だったんです。結局、日本からは六百人くらい志願でいったんですね。戦死したり、行方不明になったのが三分の一、日本にまた戻ったのが三分の一ですね。この手はその動乱の時に指をとばされたんですよ。名誉の負傷というやつですよ」。 しかし、事実かどうかの問題ではない。在日韓国人は「母国の苦しみをネタに金をもうけた」と多くの韓国人は思い込んでいる。 -------------------------------------------------- 貧しかった渡日朝鮮人 1925年、山口県警察部特別高等課が関釜連絡船を利用して日本に上陸した朝鮮人労働者の所持金を調査したところ5円未満の所持金しかない者が、実に66.6パーセントであった。5円未満とは、関釜連絡船の往復運賃にも満たない金額である。さらにこの調査では、なんと無一文の渡航者が7.6パーセントもいたのである。日本語も満足に話せずお金も一銭もない貧乏な朝鮮人が、日本へ出稼ぎにやって来ていたのである。1926年、朝鮮慶尚道警察部が日本に出稼ぎに出た朝鮮人労働者の調査をしているが、男性労働者の1日の日給は平均して1円40銭であった。 (「関釜連絡船 -海峡を渡った朝鮮人-」1988年 金賛汀 朝日選書から要約) 文盲が多かった渡日朝鮮人 『…生活水準がそういう状態ですから、当時の朝鮮では、子供を学校に行かせるというのは大変なことだったのです。 …ですから在日朝鮮人の一世たちは、ほぼ7〜8割が文盲です。そいう状況ですから、植民地時代を生きた朝鮮人の貧困が、無教育、非衛生、道徳的堕落というものと深くつながっているのです。日本人からみると、朝鮮人は「民度」が低いことになり、民族差別の一つの原因となるわけです。なんとなく薄汚くて、貧しくて… おのずから差別につながっていくわけです』 (「日本による朝鮮支配の40年」 1992年 姜在彦 朝日文庫) |
祖国が存亡の危機にあった朝鮮戦争を傍観し平和な日本で生活していたことが、在日の本国人に対するコンプレックスになっているようだ。在日が本国で蔑まれても彼らに頭が上がらない理由が分る話である。また彼らが日本に居住している言い訳を、戦時中の強制連行や韓国併合後の土地調査事業で農地を追い出されて仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと、自らの意思によるものではなく半ば強制されたものであるとする他律的な来歴に執拗にこだわるのは、このことも大いに関係しているのだろう。それにしても、この韓国人と下記の日本人裁判官の在日に対する認識の違いには驚くばかり。 |
在日と強制連行に関する最高裁判所判事・園部逸夫氏の歴史認識です。 |
"大岡裁き"を気取っているのでしょうか? 冷徹に国益を考えてもらいたいものです。 |
産経新聞 平成12年9月22日 |
永住外国人の地方参政権問題で、『立法措置を講ずれば憲法に違反しない』とする平成7年2月の最高裁判決にかかわった前最高裁判事は、ある新聞に次のような回想録を寄せている。 『在日の人達の中には、戦争中に強制連行され、帰りたくとも帰れない人が大勢いる。「帰化すればいい」という人もいるが、無理矢理日本に連れてこられた人達には厳しい言葉である』 判決の中のこの部分は傍論であり、判例拘束性はないが、こうした歴史認識から導き出されたとしたら、それは間違っていると言わざるを得ない。 |
反日プロパガンダが最高裁判所にまで浸透しているのか、それともただの無知なのか。いずれにせよ司法の由々しき事態だ。 |