ペリーの見た幕末の日本

1854年ペリーは黒船で二度目の来航をし、神奈川で日米和親条約を調印して下田、函館の開港をとりつけ、帰路両港を訪問した。以下はペリーの観察した日本の工業の将来展望、女性の地位、庶民の生活水準、都市の印象、教育水準を記したものである。
「ペリー艦隊大航海記」 大江志乃夫 1994年 立風書房
ペリーは日本をつぶさに観察し、その遠征航海の公式報告書を編纂し… 「ペルリ提督日本遠征記」(岩波文庫全四巻)として邦訳されている。「遠征記」は、日本を観察した結論として、『人民の発明力をもっと自由に発達させるならば日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう』 『日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう』と予言している。もし、その豊かさと限りない発展の可能性についてペリーが揺らぐことのない信頼を寄せていた故国アメリカに対する、最大の競争者として立ち現れた140年後の日本を見たならば、彼はどのような感想をもらしたであろうか。ペリーは帰国した後も、『あまり年を経ずして、日本が東洋(トルコ以東のアジア地域)のなかで最も重要な国家の一つに数え挙げられるようになる』ことに『疑う余地がない』と指摘した。
(中略)
4月10日、ペリーは旗艦を下田に回航させる前に数人の仕官を従えて上陸し、幕府役人の案内で神奈川郊外を視察した。

ペリーたちはある町で「町長」の自宅に招かれ、酒と茶菓の接待にあずかった。「町長」の妻と妹が給仕にあたったが… こうした女たちの態度と行動にペリーたちは好感を抱いたようである。「遠征記」は日本の女性の地位について次のように書きとめている。『日本の社会には、他の東洋諸国民にまさる日本人民の美点を明らかにしている一特質がある。それは女性が伴侶と認められていて、単なる奴隷として待遇されていないことである。日本の母、妻、および娘は、中国の女のように家畜でもなく…  一夫多妻制の存在しないという事実は、日本人があらゆる東洋諸国民のうちで最も道徳的であり、洗練されている国民であるという優れた特性をあらわす著しい特徴である。この恥ずべき習慣のないことは、単に婦人の優れた性質のうちに現れているばかりでなく、家庭の道徳がおおいに一般化しているという当然の結果のなかにも現れている。 …日本婦人の容姿は悪くない。若い娘はよい姿をして、どちらかといえば美しく、立ち居振舞いはおおいに活発であり、自主的である。それは彼女らが比較的高い尊敬を受けているために生ずる品位の自覚から来るものである。日常相互の友人同士、家族同士の交際には、女も加わるのであって、互いの訪問、茶の会は、合衆国におけると同じように日本でも盛んに行われている』
(中略)
この日の視察で得た他のことも記しているが、そこでは、『下流の人民は例外なしに、豊かに満足しており、過労もしていないようだった。貧乏人のいる様子も見えたが、乞食のいる証拠はなかった。人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くのところと同じく、女たちが耕作労働に従事しているのもしばしば見え、人口稠密なこの帝国では誰でも勤勉であり、誰をでも忙しく働かせる必要があることを示していた。最下層の階級さえも、気持ちのよい服装をまとい、簡素な木綿の衣服を着ていた。 …あらゆる階級の人々はきわめて鄭重で、外国人について知りたがり屋だが、決して図々しくでしゃばりはしない。 …彼らの習慣は彼ら自身の間では社交的で、しばしば互いに親しい交わりをむすんでいる』と描写している。

4月18日、ペリーは旗艦ポーハタン号とミシシッピ号の二隻の蒸気船を率いて下田に入港した。

『下田の町は小じんまりと建設されていて、規則正しくできている。 …街路の幅は約20フィートで、一部分には砕石が敷かれており、一部分は舗装されている。下田は進歩した開化の様相を呈していて、同町の建設者が同地の清潔と健康に留意した点は、我々が誇りにする合衆国の進歩した清潔と健康さよりはるかに進んでいる。濠があるばかりでなく下水もあって汚水や汚物は直接に海に流すか、または町の間を通っている小川に流し込む』と、清潔と健康に留意した町づくりを称賛している。

ペリーは5月13日下田を出港し、5月17日函館の港に投錨した。

函館の街路は互いに直角に交差するよう整然と建設され、道幅も広く、排水をよくするために砕石が敷かれ、両側に排水溝があり、排水はこの溝から下水渠をとおって海に排出される。『函館はあらゆる日本町と同じように著しく清潔で、街路は排水に適するようにつくられ、たえず水を撒いたり掃いたりしていつでもさっぱりと健康によい状態に保たれている』
(中略)
教育については、下田でも函館でも、書物は店頭で見うけられ、『明らかにおおいに需要されるものであった』として次のように述べている。『人民が一般に読み方を教えられていて、見聞を得ることに熱心だからである。教育は同帝国いたるところに普及しており、また日本の婦人は中国の婦人とは異なって男と同じく知識が進歩しているし、女性独特の芸事にも熟達しているばかりでなく、日本固有の文字によく通じていることもしばしばである。アメリカ人の接触した日本の上流階級は、自国のことをよく知っていたばかりでなく、他の国々の地理、物質的進歩および当代の歴史についても何事かを知っていた』

当時すでにペリーらが日本から受けた印象は、鎖国下の日本が他のアジア諸国とはかなり違った文化的・社会的発展を遂げつつある国であり、近代欧米文化に適応する能力と文化水準を十分にもち、いずれは欧米先進諸国の競争者の仲間入りをする可能性を秘めた国である、ということであった

ペリーは的確な観察眼で、日本はいずれ欧米諸国並みの工業国家になると予想し、事実そうなった。ペリーがもし李氏朝鮮を訪れていたならどう評価しただろうか。


イギリス人旅行家の見た李氏朝鮮時代の女性

李氏朝鮮時代の女性は、異常なまでに男性と隔離され家に閉じこもっていた。
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
朝鮮の女性の地位

朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀を知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からはおよそほど遠い。着ているものは汚れ放題で、夜遅くまで休みなく洗濯をするのは自分たちでも、きれいな衣服を着るのは男の専売特許と言わんばかりである。どこの小川のほとりでも平らな石の上にしやがんでいる洗濯女がいて、洗濯物を水につけたり、固くしぼって石の上に置きへらでたたいたり、灰汁にひたしたりしている。洗濯物は天日にさらされて白くなり、また薄く糊づけされるが、その前に木の捧に巻いて「洗濯棒(砧=きぬた)」で長時間たたくので、なんでもない白もめんがくたびれた白い繻子(しゅす=サテン)のようなつやを帯び、まぶしいほどのその白さはマルコによる福音書の変容の章にある衣服についてのことば、「それはこの世の布さらしではできないほどの白さであった」をいつもわたしに思い出させる。このように白服を着ることは女性に重労働を課し、綿入れの白服を着る冬はとくにそれがひどい。
(中略)
朝鮮女性の地位の現状を推しはかるのはじつにむずかしい。完全に蟄居するのが上流階級では厳然としたルールなのである。女性には専用の敷地と住まいがあり、男性用の住まいの窓はその方向に開いてはいけないことになっている。客も訪ねた家の女性についてはいっさい言及してはならない。元気かどうか尋ねるなどもってのほかで、女性はいないと考えるのが礼儀なのである。女性は教育を受けず、どの階級においてもきわめて下位に見なされている。朝鮮人男性は女性とは当然男性より劣ったものだという、ある種一元的な哲学を持っている。学校時代に『童蒙先習』、『十八史略』、『小学』でこういった見方を植えつけられ、おとなの男たちとつきあうようになると、それがますます強化されるわけである。

女性の蟄居は500年前、社会腐敗がひどかった時代に家族を保護するために現王朝が導入した。それがおそらく今日までずっとつづいてきたのは、ある朝鮮人がヒーバー・ジョーンズ氏に率直に語っているように、男が自分の妻を信頼しないからではなく、都市社会と上流階級の風紀が想像を絶するほどに乱れ、男どうしが信頼し合えなかったからである。かくして下層階級をのぞき、女性は老いも若きもすぺてが法よりもつよいカを持つしきたりにより、家の奥に隠されている。夜間にしかるべく身を覆って出かけるか、どうしてもという場合にぴったりと扉や窓を閉ざした輿(こし)に乗って旅行したり人を訪ねたりするのが、中流以上の朝鮮女牲にとっては唯一の「外出」で、下層階級の女性が外出するのはもっぱら働くためである。暗殺された王妃(閔妃)はわたしが朝鮮国内を旅行していることをそれとなく指して、自身は朝鮮のどこも見たことがなく、ソウルすらコドゥン(国王の行幸)で通るところ以外なにも知らないと語っていた。

ダレ神父(「朝鮮教会史序論」の著者)によれば、故意と偶然のいかんによらず、よその男と手が触れ合っただけでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性すらいたという。またごく最近の例では、ある下女が女主人が火事に遭ったのに助けだそうとはしなかった。その理由は、どさくさのなかでどこかの男性が女主人にさわった、そんな女性は助けるに値しないというのである!

法律も女性の住まいまでは及ばない。自分の妻の部屋に隠れている貴人は謀叛罪の場合をのぞき捕えることができない。また家の屋根を直す際には、隣家の女性が目に触れないともかぎらないので、あらかじめ近所に修理する旨を知らせなければならない。7歳で男女はべつべつになり、女の子は厳しく奥にこもらされて結婚前は父親と兄弟以外、また結婚後は実家と嫁ぎ先の親族以外、男性にはまったく会えなくなる。女の子は極貧層でもみごとに隠れており、朝鮮をある程度広く旅行したわたしでも、6歳以上とおぼしき少女には、女性の住まいで物憂げにうろうろしている少女たちを除き、一人も出会ったことがない。したがって。若い女性の存在が社会にあたえる華やぎはこの国にはないのである。

とはいえ、女たちがこのシステムのもとでくよくよしたり、西洋人女性が享受しているような自由を求めたりしているかというと、まったくそんなことはない。蟄居は何世紀もつづいている慣習なのである。自由という概念は危険で、当の女性たちは自分たちは貴重な財産だからしっかり守られているのだと考えているのではなかろうか。ある聡明な女性に自由に外出できる西洋の慣習をどう思うか執拗に尋ねたところ、「あなた方はご主人からあまり大切にされていないと思う」が答えであった!
(中略)
上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、読み書きのできる朝鮮女性は1000人にひとりと推定されている。概して中国から入ってきた考え方のようであるが、鬼神に関する民間信仰、男性が受ける教育、文盲、法的権利のなさ、慣習の根づよさが重なって、開化国でありながらも女性の地位を末開国並みに低くしてしまっている。
(中略)
朝鮮人には家はあっても家庭はないのである。夫は別個に暮らし、社交や家の外の関心事といった共通のきずながない。夫の遊興の仲間や相手は同性の友人知人や妓生(キーセン)で、その夫婦関係はある朝鮮紳士がわたしに語った「娶(めと)るのは妻、惚れているのは妾」という簡潔なことばに要約される。

Link 映画「侵略」上映委員会 / 日本の朝鮮侵略展
イザベラ・バードが朝鮮を訪れた20年後、日本統治下の朝鮮では女学生がデモ行進を行えるまでに解放されていた。(笑) 儒教体制の李朝支配下では想像すらできなかったことである。日本の朝鮮統治は女性の社会進出や地位向上に大きな貢献をしたといえるだろう。


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